子育てと息抜き / Child-raising and short break

電通問題もなんのその、仕事に忙殺されながらも、家族との時間、自分の息抜きの時間について、考えたこと、実践してみたことを書いています。

子どもの教育(3)

いつものように、2番目の男の子の水泳教室のお迎えに行ったときのことです。自転車の後ろに乗せて、少し長い信号を待っていると息子が「『耳をすませば』の聖司と雫のように…お父さんも僕を乗せてあんな坂(とても急な坂)を登れる?」と訊かれました。以前、本でこの作品を読み聞かせたことを覚えていたようで、そこからの問いかけでした。

 

ご存知の方も多いと思いますが、作中でその坂を登るシーンはクライマックスにあたり、主人公の二人にとってとても大切な時間として表現されています。年少の子どもが、そんなシーンから何を感じとったのか、少しドキリとさせられました。それに息子は、図らずも「…」の部分で結構なタメを入れて話してきたので、殊更にやきもきさせられました。結局、自分を乗せて登れるか、ということを知りたくて、登ってほしくて聞いてきたわけですが…。自分の子どものこととなると冷静に考えることが難しくなるときがありますね。

 

子どもの教育3回目は、教養についてです。僕自身は、長い間、この言葉の意味を字面から文化的な知識や理解というくらいにしか考えていませんでした。そうした知識や理解をもとに得られる心の豊かさということも含めて、この言葉の中には含まれていることを知り、大切にするようになりました。

教養があること 

教養は社会生活を営むうえで必要なものとしても論じられますが、つまるところなかったからといって生きられないということはありません。

例えば、子供の教育(2)で紹介した「ノブレス・オブリージュ」という言葉や考え方を知らなくても生きていけます。ただ、この長い人生で、お金はなくても時間ばかり余っている時や八方ふさがりで壁にぶち当たり、迷った時など自分の生き方や目的について向き合わざるを得なくなるときは必ずあるものです。そんな時に、自身の考える幅を広げ、助けになってくれるものとして、家族や親しい友人だけでなく、教養もその一つになってくれると思います。

 

今日取り上げたことはあくまで一つの例です。もともと、教養事態を身に着けることに分かりやすい「得」はないと思います。僕自身、これからの人生の時々で「よかったな」と思えるものだと思っています。